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海外転職の先にある、キャリアと生き方

海外転職の先にある、 キャリアと生き方(3回目) 太田 裕さん

海外就職体験談 2019-01-21





個人のブログが、中国で、求人サイトへ急成長。
大手企業に事業譲渡し帰国した後は、
IT企業の中国進出や人事マネジメントを担う。

太田 裕 Hiroshi Ota
TVISION INSIGHTS 株式会社
コーポレート部長

<プロフィール>
1974年生まれ。大学卒業後、リクルートにアルバイトとして入社。Webメディアの運用やバナー制作を担当。その後、モバイルコンテンツ事業会社に転職。外資系企業勤務を経て、中国・北京へ。自身のブログに掲載した求人情報への反響が大きく、2004年12月に、『カモメ中国転職』(現:『カモメアジア転職』)を立ち上げ。事業を譲渡後、日本に帰国。上場スマホゲーム会社の中国拠点立ち上げを担い、現職ではTVISION INSIGHTS社のコーポレート部長を務める。






勤めた外資系企業が撤退に。
国をまたぐ事業は難しいと痛感した。


   大学卒業時に、就職活動はしませんでした。前提として、僕が通っていた学校では就職活動は不利な状況でもありましたが、そもそも総合職という職種で会社を選ぶことに興味が湧きませんでした。1998年当時は、インターネットの黎明期。どうしてもWeb関連の仕事に就きたくて、リクルートにアルバイトで入社しました。金融系Webメディアの編集部へと配属。完全に未経験でしたが、バナーをつくったり、サイトを更新する中で、Web制作について学べたのは大きかったです。1年後、モバイルコンテンツ事業会社に転職し、コンテンツプランナーとしてメル友サイトのヒットに貢献しました。

   その後外資系の証券会社で、ネット証券サイトのWebマーケティングを担当しました。しかし、ユーザー数が伸びず、その事業は撤退。同社はヨーロッパでの成功モデルを日本に持ち込みたいという方針を掲げていました。マーケティング施策が本国からもきたり、自分たちの国にブランド力を感じてくれる層をターゲットにしたり、ローカルスタッフとしては、学びがとても多かったです。今思えば、その方針を充分に日本向けにカルチャライズする意識が、自分にかけていました。その後も外資系の企業に転職するも、すぐにエントリーしたポジションや事業部がなくなる・・こんなことあるのか、会社は意外に無計画だな、と感じましたね。ただ、待遇だけはよく、ぼんやりと居座ってしまいました。そんな自分が、嫌で仕方がなかったですが。



暇すぎて、ふとマンションの購入を考えるも、
踏みとどまった自分。
自分が手にしたいものは、何なのか?を考え、
とりあえず中国へ。





   その外資系の会社は、待遇がかなりよく、貯金も溜まっていきました。あるとき、「このあと自分の人生はどうすればよいのか?」そう考えていて、出てきた答えが、「マンションでも買おうか」というものでした。しかし「いや、待って!マンションを買って、ちょっとおしゃれ気分を味わいながら、ローンを返すことで、一生を終えるのか(いま考えれば、それもいいんじゃないかなと思いますが)」と思い直し、購入を取りやめました。
自分の未来を、予想できないくらい変えるにはどうすればいいんだろう。自分で切り開けばいい?自分は、使命感を持つタイプではないので、同じことをやってもきっと飽きてしまう・・そんな時に思い浮かび上がってきた答えが、「海外で生活してみる」ということでした。そう思ったきっかけは、証券会社時代の上司たちが、よくランチタイムに自分たちがシンガポールや香港に駐在していた時の思い出話をしていたからです、無意識にアジアへの興味を持っていたからでしょう。そうして、中国や台湾に一人で旅行に行くように。「旅行ではなく、現地で住んでみよう、語学は苦手なので、留学も働くのも同じだろう」といい加減に考えつつ、、当時、急成長していた中国に行き先を絞り、情報収集を始めました。2003年のことです。

   中国の情報をネット上で集めていると、現地の日本人向けに、現地の情報サイトや現地の日本語フリーペーパーのWEB版など、リアルな情報があることに気がつきました。ただ・・、あるサイトを見てみたところ、デザインがちょっとダサかった(笑)。これくらいだったら自分でもリニューアルできるかもと思って、「サイトのリニューアルをやらせていただけませんか?」と、履歴書と企画書をメールで送りました。すぐに返事が来て、「いつから来られますか?」と。あの1本の企画書から、私の海外生活が始まったのです。

   ほとんど勢いだけで渡航を決めたようなものですが、初日北京に向かう飛行機の中、隣に座っていた70歳くらいの日本人の男性が話し掛けてきました。「私は、会社勤めは引退しているのですが、これから自動車の生産指導に行くんですよ。すごく楽しみでねえ」とニコニコしながら語ってくれました。色々と伺っているうちに、「落ちついたら北京で会いましょう」と。日本では、なかなか無いような出会いにさっそく恵まれました。現地の日本語ができる方や仕事仲間の方を紹介いただき、ありがたかったですね。



個人の「ブログ」が、
大手企業が広告を出す
「求人サイト」へ成長した。


   現地に入ってからは、個人でブログを始めました。「北京ダックを食べた」「イトーヨーカドーが北京にもある」といった、生活情報を日本語で綴るものです。当時、「ブログ」という言葉はまだ浸透していない時代です。いまほどは、中国の生の情報が日本に伝えられていなかったので、多くの方に見ていただいていました。ほどなくして、私は北京から上海に移ったのですが、不意に一つの転機が訪れます。


上海に引っ越したときの自宅の風景

   ある日、ブログのネタが無かったので、「中国には日本人向けの求人情報がたくさんあります」と、求人へのリンクとともに記事を書いてみると、アクセス数が一気に跳ね上がったのです。これには驚きました。偶然だろう、と思って、他の求人情報を後日載せてみたら、やはり良い反応が。私のブログのアクセスは日本国内からがほとんどでしたので、求人情報だけ独立させて、新しい掲示板をつくりました。
中国現地勤務の求人情報を、完全無料で投稿できるサイトです。次第に求人投稿もコンスタントに行われて、アクセスも伸びてきたので、Google adsenseの広告を掲載することで、生活費の足しにしようと収益化を狙いました。しかしまた驚くべき出来事が。中国に進出している日系大手人材系企業から、「この掲示板にぜひバナー広告を出したい」と依頼が舞い込んだのです。そこでどうせならベンチャーぽくしようと、香港にパスポートのコピーをFAXで送り、ペーパーカンパニーを登記。名刺を刷って、1週間程度で会社をつくりました。「さも上海に起業を目指してやってきてる風」を装い、その大手人材企業の上海支社を訪問しました(笑)。

   その企業のバナー広告が掲載されると、その他の競合からもすぐに広告依頼が入りました。トントン拍子で、私は起業家になっていったのです。すでに、当時の中国では、生活するには十分な収入となり、求人サイトの運営に専念することに。
サイトの名前の由来は、もともと個人で運営していたブログの名前が、北京ダックをもじった『北京カモメ』でした。そして上海に引っ越したので、『上海カモメ』に名称を変更。ブログと同じ名前の方が、運営者か分かりやすいと思い、『カモメ中国転職』としました。「カモメが軽やかに空を飛んで海を渡るように、日本人も海外での転職を実現して欲しい」という想いを込めて命名したのです。



求人情報を不親切でなくする。
そして、物語と仕事内容のワクワクを伝えたい。



2006年代は出資も受けていなかったこともあり、PHPなど研究しながら、
ブログCMSを自分で改造して求人サイトとして運営

   私自身、日本から海外の情報をリサーチしていてましたが、どれも、社名、勤務地、職種名、給与だけが書かれた「3行広告」のようなものばかり。たったこれだけの情報で 日本国内の仕事を辞めて 海外の会社に応募してみようと思えませんでした。実際に現地に来てみると、 情報が少なすぎたことが要因で、ミスマッチが起こっていたという話は少なくなかったようです。「これは、フェアではないのでは」と感じていました。

   そこで、『カモメ中国転職』では提供する情報にこだわりました。日本国内の一般的な求人情報サイトと同様に、求人情報項目をフォーマット化。職務内容などの情報も詳しく載せました。さらに、企業への取材も実施。どんな事業をどんな思いでやっているのか、働く社員はどのようなやりがいを感じているのかを、日本の求職者に伝えたかったのです。現地の経営者や、駐在員社長の生の声を聞くことができた体験は、今でも大きな財産になっています。


上海の当時のシェアオフィスにて

   また、中国で求人サイトの運営を本格的に行うために、法人体制も、香港法人に加えて上海に広告有限公司を設立。 中国語は話せませんでしたが、日本語でサービスを提供している弁護士や会計事務所に協力いただいたので、設立時にはそれほど苦労しませんでした。現地の政府の方含めて、皆さんが応援してくれたので、初めての海外法人の運営でしたが、色々と研究することができました。

   そんな中で次第にクライアント企業も増えていき、上海だけでなく北京・大連・深セン、広州などの求人も掲載。その後は、シンガポール、ベトナムやタイなど、アジア各国の求人を扱うようになり、『カモメ中国転職+アジア』と改名しました。私が直接お会いした人から、「カモメを見て転職したことがあります」「記事を読んで、起業を決意しました」といった声も寄せられるように。もともとは個人の趣味で立ち上げたサイトでしたが、多くの企業と求職者とのマッチングを実現し、会社としても成長していきました。



『カモメ中国転職』の立ち上げ時のメンバーや社外パートナーと。


7年目。個人経営の壁が立ちはだかった。
会社を譲渡し、日本へ帰国。


   事業が拡大する中、『カモメ中国転職+アジア』は、7年目になって大きな岐路を迎えることになりました。クライアント企業と求職者数、そしてカバーするエリア。これら3つの要素が拡大すると、当然、システム投資が必要となってきます。加えて、私の個人事業として運営する限界も見えてきており、中長期的にサービスを拡大させるには、大きな投資が必要と感じていました。 また以前より体調不調が続いていて、社員に頼ってばかりな日々でしたが、手術等も必要な状況となり、資金調達よりも、売却の道を進むことに。何社も相談にのっていただいた中で 最終的にはリクルートの現地法人であるRGFに事業を譲渡。私は中国を後にしたのです。

   日本帰国後は、体調を回復させるため、1年間は休息に専念。そんな中で ありがたいことに、これから海外進出を考える会社何社からもお声掛けいただきました。最終的には、以前勤めていた会社を前身に持つ、東証一部上場のスマホゲーム会社からのオファーを受けました。ポジションは、中国進出担当です。当時は2013年でしたが、日本企業の中国進出や、中国人のインバウンド需要に関する熱が盛り上がっていました。自分の中国での人脈や経験が活かせるチャンスだと思い、「ぜひやらせてください」とその場で返事をしました。

   実際担当してみると、中国のどの都市に進出すべきかも決まっていない状況でした。リサーチを行い土地勘なども考慮し、上海進出プロジェクトを発足。法人設立準備を進めながら『カモメ中国転職+アジア』に社長募集の求人を出したり、上司とともに現地に何度も飛んでたくさんのローカル企業を訪問したり、カンファレンスなどにも参加しながら、情報収集を行ってアライアンスなども模索しました。すると、ある企業にコンタクトを取ることができ、買収先として浮上。最終的にはその約30名のゲーム開発拠点の事業譲受に成功しました。

   上海進出プロジェクトが成功したその後は、日本本社の中途採用マネージャーのポジションに異動。自分にとってはサプライズ人事でしたが、カモメ時代に培った採用関連のスキルを活かし、毎年100名を超える採用活動に勤しみました。この3年間で、「海外での事業立ち上げ経験」と「人材系ビジネスの経験」の両方を活かすことができ、海外での経験を日本のキャリアとして活かせた感触を得ることができ、素晴らしい経験をさせていただきました。

   同社でのミッションが一区切りした後は、子育てにも専念したいという思いもあって半年ほどの休暇期間をいただきました。その後はM&Aをテコに急成長しているベンチャー企業で、人材企画系の仕事と、ベンチャー専門の人材紹介事業の立ち上げを担うことに。その結果、たくさんの企業の人事採用に関わることができ非常に勉強になりました。現在勤務している、TVISION INSIGHTSも、クライアントとして出会ったのがきっかけで、ジョインすることになったのです。


二度とさかのぼることのできない
自分の人生の時間を、
何に投資するのか?




   キャリアの後半は、ほとんど人事関連の仕事に就いてきました。思い返せば、自分のブログに書いた1本の記事から、人生が変わり始めたのです。海外での転職を考えている日本人に対して、役に立つ求人情報を提供したいという想い。それが、『カモメ中国転職』というメディアの立ち上げにつながりました。日本帰国後は、ベンチャー企業の海外進出を担当し、さらに未経験でありながら人事職にアサインいただいたことで、新しい道がまた開けました。ここで活きたのは、起業経験や人事関連の業務経験だけではありません。いま考えると、とても重要だったのが、「現地で生活する外国人の気持ち、海外子会社と本社とのコミュニケーションの難易度を、リアルに感じることができた」ということです。スマホゲーム会社に在籍した際には、中国進出だけでなく、シンガポール・フィリピン・アメリカなどにも進出する海外子会社のアシスタント、駐在員のサポート、日本勤務の外国籍の人事など、さまざまなグローバルな業務に関わることができました。彼ら彼女らが感じる不安を、海外で生活した自分だからこそ、リアルに理解できる。自分も苦労しましたから、その不安をなるべく解消してあげたい、と常に考えていました。

   私自身の海外生活を振り返れば、自己評価としては人生もキャリアも素晴らしいものになりました。ただ結果的にということです。上海にいた時はとても辛かったですし、その一方で呑気に過ごしていた時もありましたし、なんとか辻褄があったというべきかもしれません。でも、この海外渡航したことを、自分の資産にしてやるという気持ちはずっと持っていました。

   私は、29歳から37歳の時間を、中国で、そして自分の小さな会社に使いました。一般的にいえば、30代前半は仕事も覚え裁量も体力もある一番伸び盛りな時期かもしれません。当時のカモメのメインユーザーは30歳前後が中心だったので、まさに私はカモメのみなさんにとって、サンプルでもあると自負していました。

   二度とさかのぼることのできない 自分の時間を、何に投資するのか?起業なのか、雇用されるのかは関係ないと思いますが、皆さんがその仕事とどう向き合うかだと思います。 ですが、海外で働きたいと思う時って、そんな大きな賭けをするような意気込みではなく、その国への純粋な好奇心や冒険心だったりするものですよね? このインタビューでもお答えしましたが、僕もそんなに強い目的意識はありませんでしたし。

   でも、こんな普通の僕でも、素敵な30代を過ごせ、仲間に恵まれ、そして立ち上げたサービスは今も続いているのですから、みなさんももっと素敵なことができると思います。



<インタビュー担当記者より>
太田さんが『カモメ中国転職』を立ち上げたのは、2004年の12月。そこから8年に渡り、サービスを発展させ続けたのは、特筆に値するでしょう。渡航前に、Webメディアの知識は持っていましたが、語学力や人材ビジネスについての経験はほぼありませんでした。「詳細な求人情報を提供したい」「自分の苦しさを、他の人には経験して欲しくない」という想いの強さがあったからこそ、ここまでのことができたのでしょう。

帰国後のご活躍も、「現地で、生で感じたことが核にある」とおっしゃっています。現地での、一日一日の生活の積み重ねや、人への向き合い方が血肉となって、国内に帰ってきても活きてくる。渡航前の計画も大切ですが、現地で一生懸命生きるという決意さえあれば、多くのものを得られるように感じました。


●インタビュー・執筆担当:佐藤タカトシ
キャリアや採用に関するWebでの連載多数。2001年4月、リクルートコミュニケーションズ入社。11年間に渡り、大手自動車メーカー、大手素材メーカー、インターネット関連企業、流通・小売企業などの採用コミュニケーションを支援。2012年7月、DeNAに転職。採用チームに所属し、採用ブランディングをメインミッションとして活動。 2015年7月、core wordsを設立。



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