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海外転職の先にある、キャリアと生き方

海外転職の先にある、 キャリアと生き方(2回目) 森田 卓巳さん

海外就職体験談 2019-01-08





なんとなく渡った留学先の上海で就職。
急成長、そして、リーマンショックでのリストラ実行。
ベンチャー企業の立ち上げのために、日本に帰国。
7年で、年商400億円の「NEXTユニコーン企業」に。


森田 卓巳 Takumi Morita
株式会社Looop 取締役COO 兼 IPP事業本部 本部長


<プロフィール>
2003年4月、東京学芸大学から同大学院に進学し、2004年2月に中国上海の華東師範大学に留学。2005年5月、大学院を自主退学して、日系ネットベンチャー企業の現地法人の立ち上げに参画。プロジェクトマネジャーなどを経て、総経理(現地法人の責任者)を務める。2011年3月に、取締役任期を満了するとともに、同社を退社。2012年1月より、日本に戻り、再生可能エネルギー事業を展開するLooop社の立ち上げに参画。営業担当、事業部長を経て、取締役COOを務めている。







後輩の留学生に衝撃を受け、
大学院時代に上海に留学。
自主退学後、現地のベンチャー企業に参画。

   海外に出ようと思ったきっかけは、大学院時代にさかのぼります。当時、チューターとして指導をしていた学生の中に、中国からの女性留学生がいました。共同研究を行う中で、彼女の「意識の高さ」に感化されたのです。日本語はあまり話せないのに、意志を持って日本に学びに来ている。向上心が非常に高くて、学習に対するスタンスが周りとは明らかに異なっていました。分からないことがあれば徹底的に質問しますし、物事を突き詰める力が凄かった。留学後のキャリアもきちんと考えていて、その後はUCLやOxfordに留学したほどです。確たるビジョンを持っていなかった私は、「こんな学生がいるのか!」と大きな衝撃を受けました。彼女が育った国を生で見てみたいと思い、経済も成長基調であった中国への留学を決意したのです。「自分を変えなくてはならない」という、危機感もあったと思います。

   留学先は、上海の華東師範大学。私が通っていた東京学芸大学と同じ教育系の大学で、交換留学の制度があったので選びました。「これを勉強したい!」と何かを志向していたわけではなく、まずは現地に行ってみようと。2004年2月、私は上海の地に降り立ちました。

   ここで転機が訪れます。結論から言いますと、1年後に大学院を自主退学して、社会人として働き始めることになるのです。大学に通いながら、日系現地企業でWebのプログラミング業務を手伝う機会がありました。そこで色々な人とやりとりをする中で、東証マザーズに上場していた、あるネットベンチャーの中国拠点の立ち上げ責任者と出会いました。何度か仕事をご一緒させていただく中、評価していただいたのでしょう、「ウチに来てくれませんか」と誘われるように。私としては、1年間の留学を経て、日本で就職するつもりでしたので、お断りさせていただきました。しかし、その責任者の方が、何度も何度も口説いてきます。その熱意にほだされて、中国拠点の立ち上げ時のメンバーとしてジョインしたのです。ただ漫然と勉強を続けるよりも、働くことで人の役に立ち、自ら稼いだお金で生活していく方が、自分には合っているとも考えました。

   一応、大学の学部は卒業していたので、両親から就職すること自体には反対はされませんでした。ただ、2005年当時の中国は、まだまだ経済発展の前の段階で、海外で就職するのであれば、欧米の先進国での就職を勧められたのを覚えています。もちろん、行ったことのない国で就職するのはさすがに難しいので、なんとか納得してもらい、2005年5月、大学院を自主退学して、そのベンチャー企業で働き始めたのです。



まずは、現地のエンジニアとの
コミュニケーションから。
業績は拡大し、10倍の規模にまで成長。

   入社したベンチャー企業の中国法人は、10名位の小さな組織で、日本で受注した案件の開発を行っていました。いわゆるオフショアの開発拠点で、私はそのプロジェクトマネジメントを担当したのです。マネジメントするのは中国人のエンジニア。当時、私自身は中国語をそこまで話せなかったので、何とか英語でコミュニケーションを取りながら、仕事をこなしていきました。中国語は業務時間外で勉強しながら、日々の仕事でも使うようにしていき、少しずつ上達していったのです。半年ほど経って、どうにか指示を出せるようになりました。

   中国語でコミュニケーションを取れるようになっても、もちろん、仕事がうまく回るわけではありません。日本の親会社の指示をそのまま伝えても、中国人のエンジニアはなかなか動いてくれませんでした。「そんなこと、なんでやる必要があるの?」「細かすぎるんじゃない?」と、拒絶されることも少なくなかったです。日本の顧客企業が求める品質は高く、その達成のためには彼らに100〜120%の力を発揮してもらわなければ難しい。このマネジメント業務を、つい先日まで学生だった自分がやらなければならない。なかなか大変な毎日でしたね(笑)。私個人のコミュニケーションだけではなかなか解決しないので、人事面での施策検討も併せて行いました。評価制度のあいまいさをなくしたり、キャリアパスも細かく設定したり。成果と評価の関係を明確にして、こちらからの要望に気持ち良く答えてもらえるように設計しました。


2008年日系ネットベンチャー 総経理時代

   このような異国でのタフな立ち上げ業務を、新卒という立場でも何とか推進できたのは、私を誘ってくれた当時の上司のおかげだと思っています。彼は、東証マザーズ上場時の主要メンバーであり、中国現地法人立ち上げの責任者。マネジメントを行うだけでなく、とにかく自分でも手を動かしますし、何でもやる。仕事とプライベートの境界が無くなるほど、良く働く方でした。ですから、私の中の「当たり前の仕事」のレベルが入社直後から引き上げられ、直接の指導の中で、様々なことを学ばせてもいただいた。おそらく、日本の大企業に入社していたら、同じようには成長していなかったと思いますね。

   仕事は非常に楽しかったです。大規模なシステムを納品して達成感を味わったり、経営に直結する役割を担うこともできました。会社の人員も、入社当時の10名から100名程度まで成長。2008年の北京オリンピックを迎えた頃に、業績もピークを迎えました。そのときには、中国事業の責任者を任されていて、充実した日々を送っていましたね。



リーマンショックで環境が激変。
拠点責任者としてリストラも実行。
再起を図るが、新規事業の難しさを感じた。



Looopのオフィスにて。緑を基調にしている

   しかし、この状況は、ある瞬間に一変しました。リーマンショックの勃発です。景気が一気に冷え込み、顧客だった日本企業はシステム投資を凍結。開発の依頼は減少し始め、日本の本社からの仕事はついにはゼロになりました。本社以外の顧客からも発注をいただいていましたが、その量は大幅にダウン。私たち中国の現地法人としては、何とか組織を存続させなければなりません。そのためには、リストラに踏み切らざるを得ませんでした。いままで、会社の成長にともに貢献してきた仲間に去ってもらうのは、本当に辛かったです。約100名の社員を20名程に縮小しただけではなく、ありとあらゆる手を尽くし、何とか会社を続けることができました。

   その後も日本からの開発の依頼はほとんど無かったので、中国現地向けのビジネスをスタートさせました。ECサイトを運用したり、インターネットの通信事業や現地日系企業向けのシステム開発も手掛けましたが、中国における新規事業の難しさを痛感しました。資本とスピードがないと、なかなか勝てないことに気づいたのです。彼らは、ビジネスを立ち上げる際に、企業間での役割分担を良しとしません。力のある企業が独占しようとするのです。たとえば、ECサイトを立ち上げる場合は、日本であれば、物流、システム、マーケティングなど、企業間で分業することが多いのですが、中国では、一社で全部をまかなおうとします。大手が資本をつぎ込んで、物流会社がECサイトを立ち上げたり、ECサイト運営者が物流企業を買収したり。資本に乏しい中小企業同士で分業しても、どうしても規模とスピードで劣ってしまう。これだと勝つのは難しいんですね。ただ、後でお話ししますが、このときの経験は、日本に戻ってからの事業運営において、非常に役に立ちました。今思えば、中国では、失敗から学んだことも本当に多かったですね。

   私自身は、リーマンショック後のリストラを経て会社を黒字化し、役員の任期満了のタイミングで退職しました。2011年3月のことでした。新卒で入社して約6年間、このベンチャー企業には勤めたことになります。2008年に北京オリンピック、2010年には上海万博が開催され、経済が急成長する中での経営の仕事は、非常に貴重な経験でした。時代の波を正面からかぶりながらも、何とか船をこぎつづけた体験は、私のビジネスマンとしてのアイデンティティを形成しました。それくらい濃い6年間でしたね。「精神と時の部屋」のようなものでした(笑)。



上海のフットサルチームで新たなチャンスが。
日本で、再生可能エネルギー企業の
立ち上げにジョイン。

   さて、次は何をやろうか。中国に残るのか、日本に帰るのか。いくつかのお誘いもいただいたのですが、なかなかピンと来るものがありませんでした。半年〜1年の間、日本に戻ってみたり、こちらで色々な人と会って情報収集を行っていたのですが、ひょんなところで運命的な出会いが待っていました。

   運動不足を解消するために、私は上海の日本人が集まるフットサルチームに所属していました。毎週日曜日に、他のチームとの合同練習を行うのですが、その相手チームに気になる人物がいたのです。現在、私が所属している、再生可能エネルギーのベンチャー企業Looopの創業者となった中村創一郎です。「仕事辞めたらしいじゃん。俺、新しいこと考えてるんだけど、一緒にやろうよ」と声を掛けられました。当時は、これまで経験した業界と関係がなかったこともあり、私もそこまで関心を持ちませんでした。中村は、2011年3月の東日本大震災でのボランティア経験に端を発して、同年の4月にLooopを創業。その後も、「日本に来て一緒にやろうよ」と何度も誘われたのですが、私は首を縦に振りませんでした。

   すると、2011年の12月のことでした。「日本に帰る予定があるんだったら、一度、展示会に遊びに来てみない?」と、中村に声を掛けられました。帰国時に予定が空いていたので、ふらっと会場に立ち寄ってみると、そこには私の名前が入っている名刺が用意されていたのです(笑)。展示会の自社ブースには多くの方が来訪しているので、対応する人手が足りず、なし崩し的に商品説明を行うことに。再生可能エネルギーのことも、商品のこともまったく知らなかったのですが、何とか対応できました(笑)。後日、名刺を交換させていただいたお客様から連絡をもらい、中村に引き継ぎたかったのですが、彼は「森田さん、責任持って最後までやらんと駄目だよ」と。まあ、それは仕方ないか、と思いながら対応をしているうちに、そのままLooop社に入社してしまいました。

   もちろん、きちんと検討はしました。再生可能エネルギーという、伸びていく領域に魅力を感じたのが入社の決め手ですね。前職では、「オフショア開発という縮小していくサービスを、どう伸ばしていくのか」ということを考えていましたから、成長が見込める市場での仕事には期待を持てました。Looop初期メンバーは、私も含め中村の知り合いや知り合いの知り合いといった方ばかり。ちなみに、営業担当は、私ともうひとり、70歳近い高齢の方のみでした。初期メンバーには中村の中国自体の知り合いも多くいますが、同じ時代に中国にいたので、つながりは強かったと思います。その高齢の営業担当者もその1人ですが、あれから7年経ったいまでも在籍しているくらいですから。



入社当時、数名の会社が、
7年間で、250名に。
急成長の原動力は、
中国で培ってきたスピード感にあった。



   いま、Looopは8期目に入ったところで、右肩上がりで成長しています。7期目の売上は416億円で、従業員数は250名を数えるほどに。再生可能エネルギーの総合企業として、ソーラー事業、住宅用太陽光システム事業、蓄電池事業、電力小売事業、海外での電源開発などを手掛けています。日経新聞では「NEXTユニコーン企業」の一つとして取り上げられました。多くの方に将来性を期待されているのも嬉しいですね。

▼参考:次の産業界の主役は?NEXTユニコーン調査:日本経済新聞 https://vdata.nikkei.com/newsgraphics/next-unicorn/#/list?about=true

   この急成長の要因は、FIT法(再生可能エネルギーで発電した電力を、固定価格で買い取る制度)の施行や電力自由化など、市場の変化を早く捉えて、早くビジネスにしていったことにあります。先ほども少し触れましたが、中国でのビジネスのスピードはもの凄いので、経営陣がその経験を持っていたことが大きかった。

   たとえば、2016年4月の電力自由化のときは、4月の段階で参入するのか、もう少し時間を掛けてサービスを提供できる基盤をつくってから参入するべきか、社内で議論が割れました。中国のビジネススピードの経験から、社長の「すぐに参入するべき!」という意見を採用し、早期参入に挑戦したのですが、この決断は正解でした。案の定と言いますか、バックオフィスは受注をさばききれないほど、大変な状態になったのですが(笑)、先行者利益は大きかった。いまでは弊社の事業の大きな柱に育っています。

   他にも、市場にいち早く参入する決断を、幾つか重ねてきました。スピードを優先して、競合企業がやっていないことを具現化して、市場を切り拓く。このスタンスは、再生可能エネルギーの事業展開において、大きくプラスに作用しました。営業や事業の責任者を務めてきた私としては、顧客からの声が次々と寄せられ、その対応を行わなければならないので、多忙だったのは確かです。ただ、自らが発掘した新たなニーズに応え続けるのは、非常に面白いですね。やらされている感覚は全くないですし、先駆者としての自負を持ちながら仕事ができる。今でも幸せなことだと感じています。



海外との協業のシーンでは、
異文化に対する理解と、
ネゴシエーション力が活きる。



レバノンでの調印式の様子

   もちろん、会社として苦しかったこともありますよ。私も含めた経営陣は、100億円や200億円といったスケールでのお金を扱った経験を積んでいませんでした。市場の電力の仕入れ値が1円上がっただけで、一瞬で数千万円の赤字になることもありますので、最初は戸惑いましたね。また、会社の規模が急拡大する中で、社員一人ひとりに高いモチベーションを持ってもらうことは難しい、と感じたこともありました。せっかく新しい領域でビジネスを展開しているので、皆にはベンチャー企業の社長と同じように、前のめりに仕事をして欲しい。ただ、組織がある程度できあがってしまうと、受け身の社員も増えてしまう。この点は、いまでも課題に感じていますし、解決策も講じています。

   私個人としては、海外の事業も担当していますので、中国で働いた経験がより直接的に活きています。再生可能エネルギーのビジネスにおいては、製品の生産工場などの協業相手が中国企業のことも多いので、現地での経験をそのまま活用できますし、それ以外の国とのやりとりにおいても、スムーズに進むことが多いですね。たとえば、中東のレバノンでの事業立ち上げを主導したのですが、中国で培ったものが確実に活きています。異文化に対する理解と、異文化とのネゴシエーション。この2つのスキルは、国が変われど普遍的に活用できるものだと思いますね。

▼参考:株式会社Looop 海外事業部
https://www.facebook.com/Overseas.Looop/



海外に行くことで
確実に機会は広がる。
ただ、それだけではもったいない。


   海外への転職は、自らの機会を広げるには良い選択だと思います。ビジネスにしろ、恋人とお付き合いをすることにしろ、結婚するにしろ、自らを新しい環境に身を置くことで、自分の世界が広がるのは間違いありません。私自身も、もともとは軽い気持ちで中国に留学したのですが、そこから世界が拡がり、今思えば大きな機会を手にすることができました。

   ただし、機会を得るだけではもったいないと思います。そこでもがき苦しみながら、その機会を活かして何かを生み出すことが大切です。海を渡るだけではなく、そこで何かをつかみ取る努力をすることで、より大きな果実を得ることができるでしょう。そういう意味では、海外へ転職するのは若くなくても構わないと思います。年齢にかかわらず、機会を広げられる場所ではありますから、年齢というよりも、そこで頑張れるかどうかが大切だと感じています。

   私たちの会社Looopは、『Looop Way』という行動規範を掲げています。「Challenge」「Sense of mission(使命感)」「Diversity(多様性)」の3つです。これらは、「海外への転職」と同じような行動を奨励しています。新しい環境へのChallenge、海外で何かを成し遂げようとするSense of mission(使命感)、そして、異文化とのコミュニケーションという意味でのDiversity(多様性)。中国でのビジネス経験者が起業した会社で、理想として掲げた行動規範は、図らずも現地での働き方そのものでした。私たちが向こうで得たものは、一人ひとりに留まらず、会社全体としてのアイデンティティにもつながっています。未来の自分をつくりたい方には、ぜひ、海外での機会を通じて、何かをつかみに行って欲しいと思っています。



<インタビュー担当記者より>

森田さんが、最初に就職したのは、日本の上場企業の中国現地法人でした。半年間と短い期間での現地での留学を経ただけで、そこまで語学もできたわけでもない。かつ、社会人としては未経験での入社でしたので、スキルも高くはなかったでしょう。そこから努力を重ね、6年間と長い期間に渡って会社を引っ張り、責任者(総経理)にまで昇格されました。「責任感が強いヤツだな、と言われることが多かった」とご本人はおっしゃっていたように、スキルの有無ではなく、ビジネスをやり切る「マインド」が、その根底にあったように思います。

強いマインドを持っていたがゆえに、そこで鍛えられて獲得したスキルは、日本に戻って大きな花を咲かせます。再生可能エネルギー企業の取締役として、立ち上げから7年間で売上400億円以上の規模にまで急成長させました。中国での仕事で培ったスピード感や、「ここだ!」という時流を読む力がダイレクトに企業の成長に寄与し、新たな市場を切り拓いています。ご本人もおっしゃっていましたが、「機会をつくるのも大事ですが、その機会をどう活かすかが勝負」という考え方には、強い説得力がありました。

●インタビュー・執筆担当:佐藤タカトシ
キャリアや採用に関するWebでの連載多数。2001年4月、リクルートコミュニケーションズ入社。11年間に渡り、大手自動車メーカー、大手素材メーカー、インターネット関連企業、流通・小売企業などの採用コミュニケーションを支援。2012年7月、DeNAに転職。採用チームに所属し、採用ブランディングをメインミッションとして活動。 2015年7月、core wordsを設立。



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